-季節物語-
輝星が少ない北の空にあって、ひときわ目立った星ぼしのならびを、洋の東西を問わず柄杓やスプーン(dipper)に見立てた例は多い。北半球に住むわたしたちは、四季を通じて北斗七星を見る機会が多いけれど、とりわけ早春の頃の姿は印象ぶかい。「まだ芽のふかぬ雑木林の上に今やぬっくりと北斗七星が頭をもたげている。柄杓のますを上にして地平に立ち上がる姿は、固い土をわってのび上るさわらびの若芽をみるようで、万物の生のめぐり来る春を告げるにはふさわしい」と、石田五郎は東京天文台構内の雑木林で見る星ぼしを駆け足で綴った小品で紹介している1 (図01)。日暮れどきや夜明け前など、決まった時刻に北斗の柄がどちらを向いているかで、人びとは季節の移り変わりを知った。北斗はまさに夜空をめぐる星の大時計なのだ。
北半球で見る星ぼしの回転の中心、「天の北極」は、地球の自転軸を空に向かって延長した方向にあり、その近くで輝く星を「北極星」と呼ん でいる。しかし、独楽の心棒が「みそすり」運動をするように、自転軸 が少しずつその方向を変える歳差運動(周期2万5800年)によって、 天の北極はゆっくりと移動し、北極星も時代とともに変わっていくのである(図02)。たとえば紀元前1000年頃の中国・殷王朝の時代には、こぐま座β星コカブが北極星の座にあり「帝」という名を持っていた。
それからおよそ3000年後の今日、北極星となっているこぐま座 α星は、天の北極から満月一つ半くらいしか離れていないので、その回転運動の様子は長時間注意深く観察しなければ分からない2 。北を知るめあてとして相応しい重要な星だが、さほど明るくないため、北斗七星の枡にあたるα、β2星の間隔を枡が開いている方向へ5倍のばしたところ、という探し方が昔から知られていた(図01 )。紀元前2世紀頃の古代中国の書『周髀算経』には、北斗七星やこぐま座α星(現在の北極星)の位置を使って天の北極を見出すための器具ではないか、とも推定される「璿璣」の記述がある。
では、なぜ古代中国では、このような正確な天の北極の測定が行なわれたのだろうか。それは、星のめぐりは時の流れを示すと同時に、地上の人びとや社会の運命に影響を与えるものと信じられていたため(天人相関思想3)、星ぼしの正確な位置観測が要求されたからなのだ。そして、北斗七星は天の中心にはないけれど、ほぼ年間を通じて観測することができ、全天の星ぼしの運行を知る鍵ともなる重要な星であった。だからこそ北極星と同等の重要な地位を占めていたのである(図03)。
もともと、中国では、星ぼしの回転の中心「天の北極」を、北辰と名づけ、その近くで輝く北極星を天の中心に座す神の化身だとみなした。その神は仏教に採り入れられ(北辰)妙見菩薩4、あるいは(北辰)尊星王(天台宗寺門派での呼称)と名づけられた。中国の道教では、北の守護神玄武が姿を変えた真武大帝や玄天上帝、あるいは天皇大帝 、略して天帝と呼ぶ。地上の王が、これと類似して、皇帝や天皇と呼ばれているのは、さきに述べた天人相関思想に基づいているのだ。朝鮮半島を経由して日本に伝わった鎮宅霊符神(図04)や泰山府君、太一神(図05)もまた日本の陰陽家によって受け入れられた。これらが皆、北極星の神さまなのである。